当ホテルのある指宿は、江戸時代に大奥で活躍した女性・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)様ゆかりの土地です。
篤姫様に縁のある今和泉島津家の文化財の数々や、篤姫様もご覧になった指宿の風景をぜひお楽しみください。
天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)
1836年2月5日-1883年11月20日 享年48歳
姓は島津・幼名 一子(かつこ)・元服後 敬子(すみこ)
今和泉家 藩主島津家の一門
篤姫は天保6年12月19日(1836年2月5日)、鹿児島城下(領主 今和泉家)に生まれる。幼少期から養女になるまでこの指宿で過ごす。父(領主)は島津忠剛。
その後、島津斉彬の養女になり篤子(あつこ)に改める。と同時に鹿児島から江戸藩邸に入る。
当時、徳川家の将軍は次々と夭死していた。長寿で子沢山だった将軍家斉が島津家から輿入れさせていたことにあやかろうとしたといわれている。これが大奥へと展開していく。この裏側で将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分かれ幕閣が対立していた。斉彬は慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を江戸城に送り込む。政治的使命を帯びて送り込まれた篤子は時代に翻弄されていく。
安政3年(1856年)、篤姫は薩摩藩と関係の深かった近衛忠煕の養女となり、この年の11月に家定の正室として大奥へ入る。しかし、安政5年(1858年)7月に斉彬、同年翌月の8月には家定が急死し、14代将軍には徳川家茂が就任することとなる。政治的使命を果たすことが出来なかった篤子は家定の死により、以後「天璋院」と名乗る。薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出たが、天璋院はこれを拒否。そして時代は幕末から明治維新へ..激動の時代が訪れる。
慶応3年(1867年)に15代将軍慶喜が大政奉還を行う。江戸城の無血開城のために島津家に嘆願し、徳川家や慶喜の救済に尽力した。