ホームページリニューアルしました(^^)/

いつも指宿フェニックスホテルホームページをご利用頂き、誠にありがとうございます。

この度、指宿フェニックスホテルではお客様により便利にご利用頂くために、ホームページリニューアルを実施致しましたのでお知らせ致します。

いろいろな情報を使いやすく・分かりやすくお伝えして参りますのでこれからも指宿フェニックスホテルをよろしくお願い致します。

指宿フェニックスホテル

 

グラウンド・ゴルフ場(16ホール)

当ホテルのグラウンド・ゴルフ場は『公益社団法人 日本グラウンド・ゴルフ協会 認定番号134号』認定コースとなっております(365日オープン)

コースは「フェニックスコース」と「グリーンコース」の2コース
グラウンドゴルフ場(フェニックスコース)    グラウンドゴルフ場(グリーンコース)

 

 

 

 

 

当ホテルグラウンドゴルフ場コースは下記の通りとなっております
123

 

 

 

 

 

 

また、約2ヶ月に1回、指宿フェニックスホテル杯「グラウンド・ゴルフ大会」を2日間にわたり開催しております
※主管 指宿グラウンドゴルフ協会(公式大会)

◆大会日帰りコース ¥1,500(税込) 参加費+昼食(2日目)含む
◆大会1泊コース   ¥10,800(税込) 参加費+宿泊(1泊2食)+昼食(2日目)含む
◆懇親会参加    ¥3,500(税込) 懇親会費(宿泊参加者の方々との懇親会参加料)含む
大会参加資格は県グラウンドゴルフ協会登録者であればOKです
ご興味のある方はお気軽にお問い合わせ下さいませ 担当:若松

 

もちろん、大会参加だけでなく、ご家族やチームの練習としてご利用下さい
(チームでの練習や大人数でのご利用の際は一度、お問い合わせ下さいませ)
■非会員(お一人様) ¥300(税込) ■協会員(お一人様) ¥100(税込)
※貸出あり(貸クラブ(20名様分)・ボール・スコア表含む)

周辺の観光マップ


より大きな地図で 指宿フェニックスホテル周辺の観光マップを表示

開聞岳知覧武家屋敷フラワーパークかごしま吹上浜海浜公園知覧特攻平和会館

A:池田湖

池田湖はかつての池田火山が陥没してできたカルデラ湖です。九州最大の湖で水深233m。「イッシー目撃」でも有名になった湖です。

B:フラワーパークかごしま

長崎鼻に行くすぐ手前に、世界中の花を集めたフラワーパークかごしまがあります。
一年中花が咲き誇り、イベントや公園内の動物のショーなど一日中楽しさや癒しを伝えてくれるおすすめスポットです。

C:今和泉島津家墓石群

天璋院篤姫の生家である今和泉島津家の歴代領主の墓石群。“源氏”の墓もありますが、島津家と源氏の関係は今もなお論説は続いています。島津指宿市の指定文化財に指定されています。

D:長崎鼻

薩摩半島の最南端に位置し、かつてこの付近にあった小火山が侵食されて岬になったと言われています。指宿外輪山の一部と言われています。

E:開聞岳

標高924m。ほぼ円錐形の桜島と並び鹿児島を代表する活火山。別名を薩摩富士とよばれ、南薩摩にはなくてはならないシチュエーションを演出します。

F:知覧特攻平和会館

太平洋戦争の末期、この知覧から1000名を超える若い尊い命が大空へと飛び立ちました。当時の特攻兵の遺品・資料などを公開しています。(旧陸軍知覧基地)

G:知覧武家屋敷

島津家の城下町で今でも現存する「本馬場」と呼ばれる石垣の小道は“日本の道百選”に選ばれております。また、武家屋敷が完全な状態で集落として残っているのは珍しく、国の名所にも指定されています。

H:坊津リアス式海岸

入りくんだ湾は天然の港として貿易で栄えました。鑑真和上が上陸した有名な場所。遣唐使の寄港として、琉球・中国との貿易港として、鎖国時代には薩摩藩の密貿易が行われた港町でした。

I:吹上浜海浜公園

万ノ瀬川河口拡がる広域公園。日本三大砂丘の一つの吹上浜末端の公園。その河口に掛けられた橋はその名のとおり、夕暮れ時には素晴しいロケーションを魅せてくれます。

篤姫ゆかりの地

当ホテルのある指宿は、江戸時代に大奥で活躍した女性・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)様ゆかりの土地です。
篤姫様に縁のある今和泉島津家の文化財の数々や、篤姫様もご覧になった指宿の風景をぜひお楽しみください。

天璋院篤姫
今和泉家墓地

天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ) 
1836年2月5日-1883年11月20日 享年48歳
姓は島津・幼名 一子(かつこ)・元服後 敬子(すみこ)
今和泉家 藩主島津家の一門

篤姫は天保6年12月19日(1836年2月5日)、鹿児島城下(領主 今和泉家)に生まれる。幼少期から養女になるまでこの指宿で過ごす。父(領主)は島津忠剛。
その後、島津斉彬の養女になり篤子(あつこ)に改める。と同時に鹿児島から江戸藩邸に入る。
当時、徳川家の将軍は次々と夭死していた。長寿で子沢山だった将軍家斉が島津家から輿入れさせていたことにあやかろうとしたといわれている。これが大奥へと展開していく。この裏側で将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分かれ幕閣が対立していた。斉彬は慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を江戸城に送り込む。政治的使命を帯びて送り込まれた篤子は時代に翻弄されていく。
安政3年(1856年)、篤姫は薩摩藩と関係の深かった近衛忠煕の養女となり、この年の11月に家定の正室として大奥へ入る。しかし、安政5年(1858年)7月に斉彬、同年翌月の8月には家定が急死し、14代将軍には徳川家茂が就任することとなる。政治的使命を果たすことが出来なかった篤子は家定の死により、以後「天璋院」と名乗る。薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出たが、天璋院はこれを拒否。そして時代は幕末から明治維新へ..激動の時代が訪れる。
慶応3年(1867年)に15代将軍慶喜が大政奉還を行う。江戸城の無血開城のために島津家に嘆願し、徳川家や慶喜の救済に尽力した。